STEP21 第2章 東京水道100年のあゆみ

昭和33年からは、水源の不足に加えて、毎年のように渇水が起り、昭和36年からは多摩川の長期渇水が続き、そのピークは「東京砂漠」といわれた東京オリンピックが開催された昭和39年である。 しかし、末端の給水栓の被害は、焼失栓約56万栓、建物疎開による撤去9万栓と、当時の給水栓約94万栓の約70%にも及んだ。

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神田・玉川上水は、江戸が東京と改まってからも、市民の重要な水道施設であった。

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戦前は、塩素は特定の期間にだけ注入し、注入率も低かったため、この指令の実施は容易ではなかったが、体制を整え指令通り実施した。 昭和32年、小河内ダムが着工以来20年目にして完成し、昭和34年には長沢浄水場が完成した。

STEP21 第2章 東京水道100年のあゆみ

一方、大正12年に発生した関東大震災後、都市化が進んだ隣接町村地域では、次々に水道が開設されていった。 利根川からの導水計画は、オリンピック渇水を契機に促進され、昭和40年には利根川と荒川を結ぶ武蔵水路が通水した。 近代水道の創設に伴い、江戸時代から市民に親しまれてきた神田・玉川上水は明治34年に廃止となった。

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しかし、第二次世界大戦の影響により、昭和18年、工事を一時中止した。 明治20年3月大倉喜八郎は渋沢栄一氏、藤田伝三郎氏と相はかり、資本金200万円をもって有限責任日本土木会社を設立して、上記大倉組商会の業務の内、土木関係に関するものを分離しこれを継承した。

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神田・玉川上水は、江戸が東京と改まってからも、市民の重要な水道施設であった。 また、平成4年には、金町浄水場で高度浄水処理を導入するなど、原水水質の汚濁問題にも対応してきている。 このため、戦後の漏水率は一時は80%とも推計され、漏水防止が急務であったことから、応急手段として鉛管を叩きつぶして水を止め急場をしのいだ。

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東京においては、今日、水道が生活や都市活動に必要な水を得る唯一の手段となっており、水道の果たすべき役割はますます重要になっている。 一方、大正12年に発生した関東大震災後、都市化が進んだ隣接町村地域では、次々に水道が開設されていった。

STEP21 第2章 東京水道100年のあゆみ

東京オリンピック開催を目前に控えた昭和39年8月、利根川系と多摩川系を結ぶ原水連絡管が完成し、荒川の余剰水を東村山浄水場へ緊急導水することにより、東京の危機を回避することができた。 こうして、大正15年、東京市議会が「将来水源ハ、利根川ニ求メラレタシ」と決議し、長年の悲願であった「利根川の水を東京へ」が実現した。

昭和50年代生まれはどんなおやつをセレクトしたのでしょうか。 昭和42年には矢木沢ダム、翌43年には下久保ダムが完成した。

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こうして、大正15年、東京市議会が「将来水源ハ、利根川ニ求メラレタシ」と決議し、長年の悲願であった「利根川の水を東京へ」が実現した。 これに併せ、多摩水道施設拡充事業等により施設整備を実施した。

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その後、給水区域を拡大し、翌32年11月には市内全域に給水が行われた。 しかし、現在、東京の水道のおかれている状況を見ると、頻発する渇水による取水制限、水源水質の悪化、震災時の給水の確保や施設の老朽化など、様々な課題を抱えている。

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昭和42年には矢木沢ダム、翌43年には下久保ダムが完成した。

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また、昭和7年には、小河内ダム、東村山浄水場の建設を主体とする第二水道拡張事業が東京市議会で決議されたが、二ヶ領用水組合との水利権の調整に時間を要し、昭和13年にようやく着工した。