一遍

しかし後の遊行派の教団色が強く、一遍と遊行派開祖を神格化する『』に比べると、教団色はさほど強くなく対照的である。 孤独にして境界なきには如かず」ということばを大切にしていたといいます。 弘安7年(1284)一遍上人は、一路京都を目指しました。

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正応2年(1289)7月、一遍上人は、「いなみ」で終焉を迎えようとしていたようですが、兵庫から迎えが来たため兵庫観音堂(現、兵庫県神戸市真光寺)に移動しました。

一遍聖繪

当初、これは、意図的ではなく自然発生的に行われ、しだいに形式化されていったと考えられます。

「一遍と時宗教団」大橋俊雄(教育社)、60頁• 鎌倉〜室町期にかけ長野金台 こんだい 寺本,兵庫真光 しんこう 寺本などがある。

『一遍聖絵』研究における参考文献一覧|矢崎 佐和子|note

じしゅう の開祖、上人のを描いた。

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そこに後から発った一遍上人が追いつき、これも如来が与えたもうた試練かと、何も食べずに再び歩き始めた。

一遍 上 人 絵 伝

内容は、伝では遺恨を持つ親族によって襲われる場面からはじまり、熊野での じょうどう、日本全国への、 ふさん(お札くばり)、、最後に兵庫の観音堂での臨終をむかえるまでを描く。 この踊り念仏は、数日行われたくさんの人びとで賑わいました。

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みなさんの社会の教科書にも、昔の暮らしを示すために、絵巻から採(と)られた様々な場面が掲載(けいさい)されているでしょう。 - 各地のに一遍上人が開いたという伝説が伝えられている。

『一遍聖絵』研究における参考文献一覧|矢崎 佐和子|note

この出来事で苦悩した一遍上人は、 熊野権現 くまのごんげんにすがるため、熊野証誠殿に参籠します。

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一は、遍は遍満、一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義であり、南無阿弥陀仏を一遍(一度、一回)唱えるだけで悟りが証されるという教義であり、智は「悟りの智慧」、真は「御仏が示す真(まこと)」を表す。 一遍は衣食住、さらには家族も捨て、ひたすら念仏を唱えたのです。

一遍

一遍上人の遊行の旅は、四天王寺から高野山を経て熊野へと向かったのです。

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すぐに肥前国にいた證空上人門下の 華台 けだい上人(生没不詳)のもとに行き、浄土教の基礎を1年ほど学び、再び聖達のもとに戻り建長3年(1251)まで学びました。 一遍上人の生涯を知るには『一遍聖絵』がもっとも信頼できますが、時宗教団の変遷においては、『一遍上人縁起絵』を軽視することはできません。

一遍上人のご生涯

古来日本では、人の名をむやみに呼ぶべきではなく、人に知らせるものではない、ましてや実名では呼ぶべきではないという慣習が存在した ことが原因と考えられる。 一遍の生涯は「遊行(ゆぎょう)」の一生でしたが、少数の弟子とともに旅を続けており、その弟子を「時衆」と呼んでいたことが「時宗(じしゅう)」の始まりとなりました。 その過激な狂乱状態は保守的な人々からは反発を受けた。

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まとめ 一遍は「賦算」と「捨聖」、さらに「遊行」と「踊念仏」を特徴とする時宗を興しました。 河野家は、瀬戸内海一体を支配していた水軍であり、源平の合戦では源氏に御方し功績を挙げました。

一遍聖繪

「一遍上人と大三島」浅野純以、40、68頁• 他の1つは,宗俊本と呼ばれる 10巻本。 文永11年()2月8日に遊行を開始し、()、()など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。

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またが移転する前の六条「御影堂」が六条道場に隣り合って位置していた時の縁で、『一遍聖絵』を借り受けて複写し、『一遍聖絵』御影堂本となった。 全体的に人物を小さく扱い、背景の自然描写に大きな関心が注がれ、のを美しく描いた歌絵は名所図絵的な趣を伝える。

一遍聖繪. [1]

前半の四巻は伝、後半六巻は二祖他阿真教の伝記。 いわゆるの祖師の中で、唯一で修学した経験のない人物であり(『一遍上人年譜略』の記述は後世のものと考えられる。 外部リンク [ ]• その後、「我が先達」と慕った空也上人(903-972)ゆかりの六波羅蜜寺を訪ね、空也上人の遺跡市屋で踊り念仏を行ったのです。

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脚注 [ ] []• 文永8年(1271)に再出家した一遍上人は、信州善光寺に参詣した折に唐代善導大師『 観経疏 かんぎょうしょ』 散善義 さんぜんぎに説く 譬喩 ひゆの「 二河白道 にがひゃくどう」の図を写しまし。 「ビジュアル百科 日本史1200人」入澤宣幸(西東社)、79頁• はこの算を一遍が極楽往生を保証する浄土行きの電車の切符と例えた。